『 長屋的な集合 』

明祥ビルのオープンニングイベントが終わった.

予想をはるかに超える来場者に戸惑いながらも、
何とか我々の活動や思想を伝えようと踊り続けた二日間だった.

我々は建築家でありながら、音楽家や舞踊家のような即興的な空間構築への強い憧れを持っている.
身一つ、一瞬で、空間を立ち上げてしまうその構築力に、いつも嫉妬してしまう.

即興的な空間構築には、日々の鍛錬が不可欠である.
思想や言葉を、動きや音、時空間に変換するための膨大な試行.
果たして建築家である我々は、彼らのような構築力を本当に持ち合わせているのか.

舞踊家 田中泯は、野良を稽古場とした.
かつて縄文人が一番多く住んでいたという山梨で、農作物を作りながら大地と対話している.
場踊りという即興的な舞踏を何度か拝見したが、その存在、時空間に圧倒された.

我々の師 北山恒は、”建築家とはパブリックな存在だ”と言った.
言葉だけでは理解できないので、
我々がパブリックな存在となるための実験をしようと考えた.
我々は、生活自体を稽古場とする.

ビル一棟の設計、運営、募集、管理を行い、自宅兼アトリエを最上階に構え、
寝室以外の全てのスペースをコモンスペース、パブリックスペースとして開放し、入居者と一緒に共有スペースを共同運営する.
我々以外の入居者の専有部においても、パブリックスペースから入居者の仕事や活動が必ず見えるような形式として設計した.

新しいオープンネス、新しい透明性の実験である.
視覚的な開放性や気持ち良さだけでなく、コミュニケーションとしての可能性を模索している.

ただ見えるのではなく、何が見えて、何を見せるか.
さらには、見えた先に何が起こるか.
空間形式の問題だけでなく、空間をどのように利用するかという作り方と使い方のスタディである.

我々の未熟さもあり、使い方を想定して設計するだけでは、とても足りない.
作り手であり、使い手である状態でなければ、全くうまくいかない.

どこから設計するか、どこまで設計するか、そんな線引きはクソ食らえだ.

一般的に考えられている建築家の職域や職能は、建築家という概念が生まれたルネサンス期から比べたら、随分と矮小化した.
我々建築家は常に、建築とは何か、建築に何が可能か、という古からの壮大な問い、無限のループの中に放り込まれている.

思いつくこと、やれること、全てを建築という概念の中に突っ込んで、即興的に構築していく.
デタラメで、当てずっぽうに、見えるかもしれないが、全て生活の中に落とし込んで、実感に変える.
生活で得た実感を精査し、豊かさを感じたものを建築にしていく.

思いつきのルールやゲームのような建築コンセプトごっこに興味はない.
実感を言葉に、実践を空間にして、我々は建築創造していく.

ビル全体を公開することで、その形が少し見えてきたように思う.
多くの人から、”長屋的”という言葉が聞こえてきた.

長屋に住んだことはないので、本質的に理解しているわけではないが、
なるほど、しっくりくる.
シェアハウス、シェアオフィス、シェアアトリエと言われても、何か違うという違和感があった.
確かに多くを”シェア”しているが、
我々は、ただ分けているのではなく、生み出している.

この場所で共に生活や仕事を作り上げていこうという意思が、
長屋的な共同体、長屋的な雰囲気を生んでいるのではないかと思う.

現時点で、その長屋的な集合を確かに居心地が良く、豊かだと感じている.
しかし同時に、まだまだ先があるようにも感じているので、
また、新たな実験に着手し始めている.

Soi 大和田